免許証の更新
2010/06/21 11:41:06
俺は大学時代に車の免許を取りました。
しかしどちらかといえば免許は自分で取りにいったというよりも親に取らされたといった感じで俺自身は運転免許の取得については気が進まず、何度も「免許なんて取りたくない」といって反発しました。
その理由は車に乗ることで起こす事故を避けたかったからです。
何十キロもの速度を出してその中で道路標識や交通の流れを瞬時に判断し、運転をしなければなりません。それを実現させるためには常に高い集中力を維持しなくてはいけません。さらにバックミラーや目視等の行為も含めると、前だけを見て運転するわけにもいかず、またこちらがどれだけ気をつけても無茶な運転をする運転手は必ずいます。
加えて俺には視力障害があり、左目にいたっては眼鏡の有無に関わらず、光をやっと識別できる程度です。
右目にしても眼鏡をかけてギリギリ運転が可能な視力しか持っていません。
ですので左方向からやってくる車については見落としがちになり、当時教習所の教官だったN先生からだいぶ注意を受けました。本来N先生は温厚で優しい性格の先生ですが、俺を指導するようになって数ヵ月後には車内で怒号が飛ぶようになり、多少体調を崩したりもしておられるようでした。
N先生のために書いておくと、N先生はけして悪い先生ではなく、教習中の俺がとてつもなく出来の悪い教習生だったということです。ようやく免許を取れたのは教習所をに通って半年後位でした。
そして免許の取得後、どうなったのか、というともう免許がどこにあるのか、解らないような状態です。
そもそも本人自身が運転を恐れており、また運転する意思があったとしても手ハンドル、手ブレーキの車を買う必要があります。
先日親から「免許の更新日が近づいてるよ」等と言われましたが、使う気のない免許の更新にどれほどの意味があるのか、正直疑問です。運転に自信のない方、ご自分の足があるじゃありませんか!バスを使っても電車を使ってもタクシーを使っても自転車を使ってもいいじゃないですか!
下手な運転をして人身事故を起こすかもしれないことを考えれば、それらのほうがよほど安全に感じます。
しかしどちらかといえば免許は自分で取りにいったというよりも親に取らされたといった感じで俺自身は運転免許の取得については気が進まず、何度も「免許なんて取りたくない」といって反発しました。
その理由は車に乗ることで起こす事故を避けたかったからです。
何十キロもの速度を出してその中で道路標識や交通の流れを瞬時に判断し、運転をしなければなりません。それを実現させるためには常に高い集中力を維持しなくてはいけません。さらにバックミラーや目視等の行為も含めると、前だけを見て運転するわけにもいかず、またこちらがどれだけ気をつけても無茶な運転をする運転手は必ずいます。
加えて俺には視力障害があり、左目にいたっては眼鏡の有無に関わらず、光をやっと識別できる程度です。
右目にしても眼鏡をかけてギリギリ運転が可能な視力しか持っていません。
ですので左方向からやってくる車については見落としがちになり、当時教習所の教官だったN先生からだいぶ注意を受けました。本来N先生は温厚で優しい性格の先生ですが、俺を指導するようになって数ヵ月後には車内で怒号が飛ぶようになり、多少体調を崩したりもしておられるようでした。
N先生のために書いておくと、N先生はけして悪い先生ではなく、教習中の俺がとてつもなく出来の悪い教習生だったということです。ようやく免許を取れたのは教習所をに通って半年後位でした。
そして免許の取得後、どうなったのか、というともう免許がどこにあるのか、解らないような状態です。
そもそも本人自身が運転を恐れており、また運転する意思があったとしても手ハンドル、手ブレーキの車を買う必要があります。
先日親から「免許の更新日が近づいてるよ」等と言われましたが、使う気のない免許の更新にどれほどの意味があるのか、正直疑問です。運転に自信のない方、ご自分の足があるじゃありませんか!バスを使っても電車を使ってもタクシーを使っても自転車を使ってもいいじゃないですか!
下手な運転をして人身事故を起こすかもしれないことを考えれば、それらのほうがよほど安全に感じます。
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ブックカバー
2010/06/17 11:21:16
俺は書店によく行きます。
その目的は本の購入であることもあるし、立ち読み(座り読み?)が目的の時もあるし、新刊の確認が目的の時もあるし、純粋に面白い本はないかと探しに行くときもあります。今日はそんな本の事について書こうと思います。
書店で本を購入すると、店員さんによく、「ブックカバーはご利用になられますか?」と聞かれます。このとき「はい」と答えるとブックカバーを付けてもらえます。商品の購入時に特に何も言わなくてもブックカバーを付けてもらえる時もあります。こうすることによって本が汚れにくくなるようで、私的に見た感じであれば、本の購入時にブックカバーを付けてくれない店員さんよりも、ブックカバーを付けてくれる定員さんの方が多いように思います。
お店側からするとそれが本屋さんのお客さんに対するエチケットとだと思っている店員さんが多いんじゃないかと思います。それは大変ありがたいことだと思います。
しかし俺的にはそのブックカバーで困ったことが起きています。ブックカバーというのは付けてしまえば本全体を包んでいます。ですから本自体のカバーやイラストはもちろん、本の題名自体も見えません。お店側からするとそれが本屋さんのお客さんに対するエチケットとだと思っている店員さんが多いんじゃないかと思います。それは大変ありがたいことだと思います。
そんな状態で本棚に何冊も本が並んでいたら……皆さんには区別がつきますか?
俺には区別がつけられません。なので一冊づつ表紙を開いて本の題名を確認しなくてはならない時があります。はっきり言って面倒です。書店の名前などは入ってなくてもいいからブックカバーの外側からでも本の題名が確認できるように透明なブックカバーを開発してほしいです。
CDのジャケットのように透明なナイロンで包んでもらえれば、後々、本も探しやすいのにと思います。
コンピューター社会?
2010/06/16 10:38:48
おはようございます。
最近、漢字が書けなくなっています。
それは手の機能がおちて書けなくなっているということでも漢字を習わなかったために字を知らないわけでもなく、漢字の細部が明確に思い出せないという意味においてです。
しかし、何かが書いてあればそれを読むことは大抵可能です。
なぜかと問われれば、なんとなく文字の輪郭や形が頭に入っていて、一見すればその字や言葉が読めてしまうからです。
それは手の機能がおちて書けなくなっているということでも漢字を習わなかったために字を知らないわけでもなく、漢字の細部が明確に思い出せないという意味においてです。
しかし、何かが書いてあればそれを読むことは大抵可能です。
なぜかと問われれば、なんとなく文字の輪郭や形が頭に入っていて、一見すればその字や言葉が読めてしまうからです。
パソコンや、携帯電話を持つようになってから、自分で実際に『字を書く』という習慣がほとんどなくなっています。ですので字が書けなくなるのは当たり前です。
このようなことは筆記に限った事はありません。皆さんの周囲を見渡してみてください。
パソコン、携帯電話、オートロックシステム、カーナビ、電子広告、計算機・・・・・・かつては人間自ら行っていた行為のほとんどを代行してくれる機械があるはずです。
これらは確かに使い勝手がいいと思います。携帯電話が一台あれば、いつでも見知った誰かと連絡をとることが出来ますし、レンタルビデオなんかもパソコンで注文できるようです。
そしてオートロックなら鍵をかけ忘れる心配がありません。これらはうまく使えばかなり便利なものですから否定するつもりはありません。
パソコン、携帯電話、オートロックシステム、カーナビ、電子広告、計算機・・・・・・かつては人間自ら行っていた行為のほとんどを代行してくれる機械があるはずです。
これらは確かに使い勝手がいいと思います。携帯電話が一台あれば、いつでも見知った誰かと連絡をとることが出来ますし、レンタルビデオなんかもパソコンで注文できるようです。
そしてオートロックなら鍵をかけ忘れる心配がありません。これらはうまく使えばかなり便利なものですから否定するつもりはありません。
しかし、それらの機械が人間の代わりにいろいろなことを代行するようになって人間が本来持っていた人間同士の関わりが希薄になってきているように思います。
そんなことを一番感じるのが年賀状です。
毎年由良家では年賀状をパソコンに内蔵されたソフトで書いて相手に対して送るわけですが、同じソフトから印刷される字はきれいな代わりに字体も内容もすべて同じです。
ですからこんな年賀状を出す意味があるのか、と時々思います。仮に出した年賀状がどれだけ汚い字であっても、その字にはその人の味が出るし、自分のためにわざわざ手間をかけて年賀状を書いてくれるような人物なら大なり小なりその人物に対して愛着がわくはずです。
そんなことを一番感じるのが年賀状です。
毎年由良家では年賀状をパソコンに内蔵されたソフトで書いて相手に対して送るわけですが、同じソフトから印刷される字はきれいな代わりに字体も内容もすべて同じです。
ですからこんな年賀状を出す意味があるのか、と時々思います。仮に出した年賀状がどれだけ汚い字であっても、その字にはその人の味が出るし、自分のためにわざわざ手間をかけて年賀状を書いてくれるような人物なら大なり小なりその人物に対して愛着がわくはずです。
昨今、相手の人とうまく対話が出来ないとか、集団生活になじめないとか、孤独死が増えているとよく聞きます。そういった原因の全てが機械やコンピューターのせいだとはいいません。しかし機械が発達していくにつれて人間同士で心のの温かみに触れるような時間は減少しているような気がします。そしてそのことでどこかに虚無感を感じている人や他人とうまく関係のもてない人が多いのかもしれません。
このまま機械が進歩を続ければ人間はいつか必要とされなくなるような気がすると思うとゾッとします。介護用ロボットに介護されたって嬉しくありませんよね?
いろんな物がどんどんと電子化されていく今日この頃、俺の頭にはそんな心配事が浮かんできます。
いろんな物がどんどんと電子化されていく今日この頃、俺の頭にはそんな心配事が浮かんできます。
(だいぶ前にも似たようなことを書いた気がするのですが、ダブっていたらごめんなさい。)
疑問
2010/06/11 11:15:24
学生の頃『交通安全教室』というものがありました。
恐らくこのブログを読んでくれている皆さんも一度や二度くらいは受けたことがあるかと思われます。横断歩道を渡る前は信号と左右に車が来ていないかどうか確認して渡りましょうとか、そういったごく一般的なものです。
交通ルール自体はお巡りさんが丁寧にやさしく説明してくれるので分かりやすかったですし、ルールそのものに疑問があるわけではなかったのですが、当時由良少年が気にしていたことは信号そのものです。
『赤信号』、『黄信号』はそのまま見た目通りで解かりやすかったのですが、『青信号』の場合どこからどう見ても、『緑色にしか見えません』でした。
けれど何度交通安全教室に参加をしても信号を渡るときの色は『青だ』と教えられました。そしてこのことについて、周りの人間が何の反論もしないまま、安全教室が進んでいくのを不思議に思いながら(緑色にしか見えないのに)等と考えていました。今は『青信号』と言われるとすぐにでもあの緑色を思い浮かべることができますが、あれは色の種類として本当に『青色』なんでしょうか?それとも自分が生まれる以前にあの色を『青色』と定義した人物が居るんでしょうか?『緑色』にしか見えない『青信号』がなぜ一般的に『青信号』と認識されるようになったのか、いまだに疑問を感じます。
恐らくこのブログを読んでくれている皆さんも一度や二度くらいは受けたことがあるかと思われます。横断歩道を渡る前は信号と左右に車が来ていないかどうか確認して渡りましょうとか、そういったごく一般的なものです。
交通ルール自体はお巡りさんが丁寧にやさしく説明してくれるので分かりやすかったですし、ルールそのものに疑問があるわけではなかったのですが、当時由良少年が気にしていたことは信号そのものです。
『赤信号』、『黄信号』はそのまま見た目通りで解かりやすかったのですが、『青信号』の場合どこからどう見ても、『緑色にしか見えません』でした。
けれど何度交通安全教室に参加をしても信号を渡るときの色は『青だ』と教えられました。そしてこのことについて、周りの人間が何の反論もしないまま、安全教室が進んでいくのを不思議に思いながら(緑色にしか見えないのに)等と考えていました。今は『青信号』と言われるとすぐにでもあの緑色を思い浮かべることができますが、あれは色の種類として本当に『青色』なんでしょうか?それとも自分が生まれる以前にあの色を『青色』と定義した人物が居るんでしょうか?『緑色』にしか見えない『青信号』がなぜ一般的に『青信号』と認識されるようになったのか、いまだに疑問を感じます。
果物
2010/06/10 12:13:38
子供のころ、夏にスイカをよく食べました。
種を取るのが面倒くさかったけれど、夏に食べるスイカはとても美味しく、スイカの皮が白くなるまでスイカを食べていました。
由良少年の夏に食べておいしい『果物』の代表は大抵スイカでした。
ところが、誰かに聞いたのか自分で調べたのか記憶が定かではないですが、いつの頃か、スイカが『果物
』ではなく、『野菜』であるということを知りました。そんなことは当然だろうと思われている人もいるかもしれません。そうだったのか、と思われている方もいるかもしれません。ともかく当時の由良少年にとって『果物』というのは『甘くて、果汁がたっぷりで冷たくておいしい食べ物』という印象がありましたし、現に『果物』の中にはそういった類のものが多数存在します。その意味においては果物とは『甘くて、果汁がたっぷりで冷たくておいしい食べ物』という由良少年の持った印象は果物の特徴をよく捉えているので、ある意味『正解』といえます。しかしその『果物』と同じような特徴を持ちながらスイカは『果物』ではありませんでした。
では、『果物』とは何か?何となく想像はついても『果物とはこのようなものだ』と説明ができる人はそう多くはなかろうと思います。今回のブログの締めはその答えを書いて終わろうと思います。
『果物とは』
果物とは、『樹になるものだけを指す』そうです。
この意味合いから考えるとスイカが果物ではないということがわかります。俺も初めてこれを知った時にはそんな区別の仕方があったのか、と驚いていました。
『果物』と『野菜』の境界線は曖昧なものではなく、『樹になるのか、樹にならないのか』で区別することができます。
種を取るのが面倒くさかったけれど、夏に食べるスイカはとても美味しく、スイカの皮が白くなるまでスイカを食べていました。
由良少年の夏に食べておいしい『果物』の代表は大抵スイカでした。
ところが、誰かに聞いたのか自分で調べたのか記憶が定かではないですが、いつの頃か、スイカが『果物
』ではなく、『野菜』であるということを知りました。そんなことは当然だろうと思われている人もいるかもしれません。そうだったのか、と思われている方もいるかもしれません。ともかく当時の由良少年にとって『果物』というのは『甘くて、果汁がたっぷりで冷たくておいしい食べ物』という印象がありましたし、現に『果物』の中にはそういった類のものが多数存在します。その意味においては果物とは『甘くて、果汁がたっぷりで冷たくておいしい食べ物』という由良少年の持った印象は果物の特徴をよく捉えているので、ある意味『正解』といえます。しかしその『果物』と同じような特徴を持ちながらスイカは『果物』ではありませんでした。
では、『果物』とは何か?何となく想像はついても『果物とはこのようなものだ』と説明ができる人はそう多くはなかろうと思います。今回のブログの締めはその答えを書いて終わろうと思います。
『果物とは』
果物とは、『樹になるものだけを指す』そうです。
この意味合いから考えるとスイカが果物ではないということがわかります。俺も初めてこれを知った時にはそんな区別の仕方があったのか、と驚いていました。
『果物』と『野菜』の境界線は曖昧なものではなく、『樹になるのか、樹にならないのか』で区別することができます。